二十代の主婦である私は、一年前まで、東京都下のある公団住宅に住んでいました。
ある夕方、私は近くの棟に住む三田さんという顔見知りの主婦と一緒に、敷地内の児童公園の中を歩いていました。
すると夕暮れの園内に、ひとりぽつんとブランコに乗っている小学生ぐらいの女の子がいたのです。
このあたりの子供なら、たいていは見知っているのですが、初めて見かける顔で、おかっぱ頭でクリクリとした瞳の、可愛らしい子でした。
私たちがその横を通りすぎようとすると、女の子は私たちに声をかけてきました。
「おばちゃんたちのおうちはどこ?」
三田さんの家はちょうどその公園から見える場所にあったので、「あそこよ」と、窓を指さして教えたのです。
すると女の子は「ありがとう」と、礼儀正しくお礼を言って頭を下げると、走って公園を出て行ってしまいました。
何が「ありがとう」なのかわからなかったのですが、子供のいうことだから、と思い、私たちはとくに気にもせず、それぞれの家へ戻りました。
その翌日、ゴミ出しにいった私は、ゴミの集積場に集まっていた人たちから、三田さんが昨夜、階段から落ちて大怪我をしたのだという話を聞きました。
『気の毒に。お見舞いに行かなければ』と思いましたが、私はそのときにはそれ以上、何も考えなかったのです。
私が『おかしい』と思い始めたのは、その次にあの女の子の姿を見かけてからでした。
三田さんの怪我から数日後のことです。
やはり夕方に敷地内を歩いていた私は、どこかから『おばちゃんのおうちはどこ?』という子供の声がきこえてきたのにギクリとして立ち止まりました。
振り向くと、私の隣の部屋に住む主婦が、おかっぱの女の子と立ち話をしています。
それは、あの日ブランコに乗っていた女の子でした。
私は妙な胸騒ぎを感じました。
なぜ、あんなあどけない子供の言動に、こんなに不安を感じているのか自分でもよくわかりませんでしたが、私はそそくさとその場を立ち去りました。
その夜、私は自分のカンが正しかったことを知りました。
隣家の主婦が料理中に熱い天ぷら油を自分の足にこぼして、救急車を呼ぶ大騒ぎになったのです。
あの少女と不幸な事故のあいだに何かの関係があるのでは、と思う一方、そんなことはありえない、とも思いました。
それでも私はやはり、夕暮れには、できるだけ家から出ないようにすることにしたのです。
そんなある日の夕方、緊急の回覧板が、まわってきました。
数日後に控えた住民集会についてのお知らせで、なるべく早くまわすようにという指示でした。
私は、建物内の廊下を通って上の階に行くぐらいなら、まさかあの女の子に会うこともあるまい、と思い、思い切ってドアから外に出ました。
途中、誰に会うこともなく上の階の部屋へ回覧板をまわした私は、すぐに自分の部屋へ戻ろうとしました。
階段を下り、角を曲がればもう自宅の部屋のドアです。
私はホッとしながら角を曲がり、そこで危うく悲鳴をあげそうになりました。
そこには、あのおかっぱの女の子が、ニコニコと笑顔を浮かべて立っていたのです。
私は血の気が引くような思いで、その場に立ちすくんでしまいました。
女の子は『おばちゃんのおうちはどこ?』と、あどけない様子で尋ねてきます。
私は何も答えずに、問いかけを無視して小走りに女の子の脇をすり抜け、あわてて自分の部屋に駆け込みました。
ドアを閉ざした直後に、小さくドアをノックする音とともに『おばちゃんのおうちはどこ?』という声が聞こえました。
私は鍵をかけ、チェーンまでしっかりとかけて、決してドアを開けませんでした。
少しすると、女の子はあきらめたようで、ドアの覗き穴から見ると外には誰もいなくなっていました。
そんな日にかぎって、主人は帰りが遅いのです。
私は一人でいるのが怖くて、主人の帰りを今か今かと待ちかねていました。
結局、その日、主人が帰宅したのは十二時近くでした。
玄関まで走って出迎えた私に、ほろ酔いかげんの主人は、『今、下で、小さな女の子に話しかけられたよ。こんな時間にどこの子かな』と言うのです。
ゾッとした私は、あわてて問いただしました。
「何て話しかけられたの!?」
「『おじちゃんのうちはどこ?』って聞くんだよ。俺は、ちょっとからかうつもりで、『おじちゃんのうちは、そこの電話ボックスだよ。お嬢ちゃんはどこに住んでるんだ? もう帰らないと危ないよ』って答えたら、『ありがとう』って頭を下げて、走って行っちゃったんだ。おかしな子だな」
私は主人に、あの女の子と不幸な事故のことを話しました。
主人は笑って取り合おうとはしませんでした。
けれども、翌日、団地内の電話ボックスが不審火で黒焦げになったのです。
それは主人が女の子に示した電話ボックスでした。
私はそれ以来、どうしてもその団地にいることに我慢ができず、無理をいって引っ越すことに決めました。
主人はいまだに私のいうことを本当には信じていないようですが、私は、あの女の子が不幸を運んでいたのだと確信しています。